ATERA PEOPLE 07
医療法人川崎病院院長 大下正晃さん
何があっても患者さんを絶対に見捨てない
国内留学がきっかけで川崎病院の常勤医へ
徳島生まれの徳島育ち。地元・徳島大学医学部を卒業した後も、大下正晃さんの人生設計の中で房総半島で働く確率は限りなくゼロに近かった。転機が訪れたのは、2003年。所属していた徳島大小児外科のボスに命じられた。
「地方では症例数が少ない。東京で2年ばかり修業してこい」
順天堂大学医学部小児外科に国内留学。約束の2年後、徳島大小児外科では教授が交代する。「新体制になったから帰ってこい」と誘われた。だが、大下さんはもちろん、家族はすでに東京の生活になじんでいた。東京で自分の力を試してみたい気持ちもあった。徳島の医局との縁はここで切れる。
その頃、大下さんはすでに川崎病院で非常勤医師として働いていた。たまたま07年に常勤医が退職。川崎病院が順天堂大小児外科教授夫人の実家だったこともあり、後任の常勤医となった。半年後に院長に就任し、8年が過ぎようとしている。
医師は「自分の能力を試せる」職業
子供の頃から「何か人の役に立つ仕事に就きたい」と漠然と考えていた。医師は「自分の能力を試せる」職業だという。
「知的な側面だけでなく、体力やハートなど、全てが要求されます。医療を通じて、自分自身を試してみたかった」
40代半ばを迎えた今、「患者さんに『よい医療』を提供できている」という実感がある。若い頃にはそんな余裕がなかった。知識も経験も不足している時期でもあった。そんな「下積み」を経て、30代後半から医師は成熟期を迎える。
「これから50〜60代くらいまでは第一線でバリバリやっていくべきかと。医療という分野で自分の持てる力を最大限発揮していきたい」
大下さんにとって、「よい医療」とはどういうものなのだろう。
「患者さんは病院に入ってこられ、診療を受け、会計を済ませて帰る。まずは、必ず『いい状態』でお帰りいただくことです。満足してもらえる医療サービスを提供したい。もう一つはハートの問題。何があっても患者さんを絶対に見捨てない。強い気持ちを持つことでしょうか」
子供を診れば家庭や地域の姿が浮かぶ
小児外科に籍を置いたこともあるだけあって、今も子供を診ることに重きを置いている。
「子供さんの診療をしっかり行うことで、家庭内の環境がわかることがあるんです」
地域医療の最前線に立つ家庭医の役割は目の前の患者を診るだけでは全うできない。患者の家族や地域社会を視野に入れた診療が求められる。
子供をきちんと診るのにはもう一つ理由がある。「こんなかかりつけのお医者さんがいたな」と少しでも記憶にとどめてもらいたい。
「そんな子の中から将来、医療に従事する人材が出てくることに期待したい。私自身も小さい頃の記憶を通じて医師や看護師のイメージが形作られていきましたから。医療の現場では人の生死に関わる場面がたくさんあります。そこで得られるものは非常に大きい」
家族と暮らす東京の自宅から大多喜に通っている。現在の勤務は月曜朝〜火曜朝、水曜朝〜木曜夕方、金曜夜〜土曜夕方というシフト。激務を支えるエネルギー源は患者からの言葉だ。
「先生、ずっといてください」
「何かあったら、またお願いします」
そんなふうに声を掛けられると、力がわいてくる。
循環型の医療・看護・介護サービスを提供
「一隅を照らす」── 川崎病院のモットーだ。オーナーである宮野武理事長の意向に沿いながら病院を切り盛りする。
「理事長は医療に関しては非常に厳しい。『患者さんに優しくない医療者は駄目だ。必要ない』と接遇の大事さをいつも強く説いています。その思いを私たちも汲み取り、現場で表現しているところです」
大下さんが医師、院長として地域医療の最前線にいることは間違いない。だが、川崎病院だけで大多喜の医療を完結させるのは難しい。近隣の総合病院の力を借りる必要がある。そうした病院で講演などの機会があれば、極力足を運んでいる。「顔の見える連携」を築き、患者を引き受けてもらうためだ。
「近隣の病院に送り出した患者さんには必ず帰ってきていただきます。受け入れ体制もこちらで十分整えていきたい。当院に長期的に入院する療養病床があり、老健施設も併設しているのはそのためです。さらには今年からサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)も手がけている。川崎病院グループとして一連の循環型の医療・看護・介護サービスを提供する体制が整いつつあります」
大多喜ガーデンハウスを「開かれた場」に
サ高住は住宅部分と生活支援サービスで別々の契約を結ぶ。「利用権」として一括で契約する一般の有料老人ホームとはその点が異なる。川崎病院が手がけるサ高住は「大多喜ガーデンハウス」と名付けられた。
「入居者には現役を退いたあと、余力を残した方を主に想定しています。地域の方々は優先ですが、どこに住んでおられるかを問わず、いろいろな方に来ていただきたい」
業界でも高品質で知られるメーカーと組み、職員の意見も取り入れながら建設を進めた。大下さんも機能には自身を持っている。ガーデンハウスは「町おこし」の一環でもある。
「これだけの施設を町民の皆さんに開放しないのはもったいない。共有スペースを使ったお茶会など、地域の方々にも開かれた場にできないかと考えているところです」
地域の期待に応える「すべ」を持ちたい
「大多喜は自然災害に強い町」だという。
「内陸ですから、津波は来ません。私が四国にいたころに経験したような大きな台風も来ない。洪水になるような大雨が降るのも何十年に一回くらい。火山帯にも当たっていないので、直下型の地震の心配もない」
これだけ安全性の高い風土に恵まれた町はなかなかない。
「しかも、車で東京から1時間ちょっと。それで、緑豊かで牧歌的な環境を満喫できる。移住を考えている方向けには最大のセールスポイントでしょう」
そんな大多喜で暮らす人々の健康状態は「身の丈に合った」ものだ。土地が豊かなこともあり、兼業農家が多い。田や畑の仕事に「定年」はない。体が動く限りは続けられる。
「これが大多喜の高齢者の方々の元気の源になっています」
徳島と房総には浅からぬ縁がある。徳島の旧国名は「阿波」。「安房」と読みが同じだ。奈良時代、阿波で朝廷に仕えていた忌部氏という氏族が黒潮に乗って房総の布良に流れ着いた。そこから文化が開けていった ── 古い書物にはそう書かれている。
徳島藩の藩医として有名な関寛斎は上総国(現在の千葉県東金市)の出身だ。これらの不思議な縁について調べ、文章に書き著したこともある。
「私も流れてきたようなものです。空路ですが(笑)」
これからも大多喜に腰を落ち着け、町の健康と向き合っていく。
「医療は地道な方法でしか伝えられない。大々的な宣伝はあまり好きではありません。地域の皆さんの期待に応えられる『すべ』を持つ医療機関でありたい。『ここで医療をやりたい』という人が出てくれば、技術や情報、資料は惜しみなく提供します」
大下正晃
医療法人川崎病院院長/介護老人保健施設泉水ガーデンホーム施設長。1971年生まれ。徳島県出身。1997年、徳島大学医学部卒業。同大学第一外科入局。2004年、医学博士(徳島大学)。順天堂大学外科国内留学(宮野武教授)。07年6月、川崎病院第3代病院長就任。11年10月、泉水ガーデンホーム初代施設長就任。順天堂大学非常勤講師。川崎病院の外来患者は1日平均75〜80人。病床数は26床。3階は介護老人保健施設となっており、こちらは22床。